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無関心<人情<愛玩<愛着<愛情<慈悲

先日の「親」に付きまとう、強烈なる不安を書いた後に、ちょっと考えが渦捲いていたので、それを整理してみると、タイトルに書いたような不等式に落ち着いた訳です。
人間の、対象物(人)に与える心的エネルギーのレベルを段階分けしてみたのです。

「愛情の反対は、憎悪ではなく、無関心である」という言葉はよく聞きます。
憎悪は相手に対する感情が動いているから、興味を持っているだけマシという事です。

…ということで、無関心を人間の心的リソース配分の最低状況とするとですね、
その次に、まあ有り体の人付き合いはしてもいいな、という段階がある訳ですね。
最悪、火事と葬式の時くらい力貸してやってもいいよ、と。村八分の状態ですな。

確か、まぐまぐの投稿だったと思うのですが、

夫「俺達、愛情ある仲じゃないの?」
妻「人情!」

…というような奴がありました。
なので、無関心よりリソースを割いている状態を、人情としておきます。
これがまあ、人間として生来持っているものなのでしょう。

それより上の状態を考えた時に、例えば、飼い主とペットの関係が浮かんだのです。
ここには、「彼は私がいないと生きていけないの」というような男女関係も含まれそうですな。だから、これを愛玩としておきます。やっと愛という文字が割り当てられる言葉になった訳です。

じゃあ、それより少し上の段階を考えてみたんですが…。
たとえば好きで付き合い始めた相手が、もう何年も経って、目尻にシワができ、おっぱいも垂れて、ウエストにだいぶお肉がついてきたとしましょう。
付き合い始めた時のテンションの高さなんか、もうとっくに失われているんだけれども、だからといって別れる事もできないような状態…。これは愛着ではないかと思うんです。
「こいつが最高とは言い切れない。でも、俺はやっぱりこいつなんだよな」というレベルは、愛情というより愛着という言葉のほうがシックリ来るような気がするんです。

「簡単に手に入るものに愛着はわかない」という内容を、誰かのコラムで読んだ気がします。これは、人ではなく物に対しての愛着として語られた文章だったと思うのですが、ちょっと元ソースが見つかりませんでした。
でもまあ、愛着がわくには時間的経過と、その途中での『獲得の為のある程度の手間(試練)』が必要なようですね。
そのような手間があったからこそ、手放すのが惜しくなるわけで、ようは、愛玩よりももっと対象物に執着している状態なわけです。

…で、いわゆる愛情とは、そのさらに上の段階にある状態だと思うんですよ。
残念ながら、ほとんどの人が愛情だと思っているものは、実は愛着でしかないと思うんですね。
『傷つくならばそれは愛ではない』という本とメルマガ
があるのですが、そこに、

愛は何も執着せず、すべてを与えることを望むもの
 愛には何の期待もなく、条件もありません。「もしあなたがあれを与えてくれたら、私はこれをあげましょう」というような取引きではないのです。

…という一文があるのですね。
辰巳渚氏が「親」について書いた文章の根底にある、本来「親」に要求される資質というのはこの愛情だと思うんですよ。

…で、「親」になるべき年頃の人間は、『本来の愛情には、何の期待もなく、条件もないものなんだ』ということを薄々わかってはいるのだけれど、「自分にはそんな愛情はない。だって、そこまで思ったことはないもの」と悩んでいるんじゃないかと思うんですね。

…というか、私はそこで悩んでしまいましてね。

…結局、子供を持つことで、自分の愛情の限界、というか人としての器の小ささと直面するのが、怖くてたまらなくなってしまったんですよ。結婚するような相手もいないうちからね…。

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